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邪馬台国の一部か? ー纏向遺跡の大型建物群ー 

 09.11.17
 11日、英国人女性死体遺棄の容疑者市橋達也逮捕と森繁久彌さんの死去さえなければ新聞の1面トップになったであろうニュースが奈良県桜井市から飛び込んできました。同市の纏向(まきむく)遺跡から一列に並ぶ大型建物群が検出されたのです。纏向遺跡はヤマト政権の最初の本拠地と見られている遺跡、そして、その実年代が3世紀半ば頃、つまり女王卑弥呼の邪馬台国時代まで遡りそうなことが、近年の考古学的な成果から明らかになりつつある遺跡でもあります。 
 つまり、今回の調査成果は邪馬台国の所在地論争に一石を投じるものであり、邪馬台国畿内説に立つならば、この一列に並ぶ大型建物群が卑弥呼の宮の一部である可能性も出てきたわけで、歴史ファンの興味をそそらないわけがありません。私も時間さえ許せば14、15日の現地説明会に行きたかったですね。
 さて、私が新聞の調査区の図を見て特に興味深く思ったのは、その建物列が並ぶ方向。
 御存知の方も多いと思いますが、中国の都は、唐の長安城を倣った平城京や平安京を見てもわかるように、基本的に南北方向に主軸をおきます。そして、邪馬台国や初期ヤマト政権の王も中国と交渉しており、この都造りの原則はおそらく知っていたはずなのに、今回の建物群は東西に並んでいるのです。
 それは、やはり初期ヤマト政権の王が、纏向遺跡の東方にある聖なる山、三輪山の存在を意識していた、つまり、中国の思想より地元の神様を重視した結果であると推測するのですが、いかがでしょう。
 

by takeshi_yamagen | 2009-11-17 08:34 | 歴 史 夜 話  

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