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津 軽 紀 行 ⑧ 津軽平野縦断 ―十三湖から斜陽館へ―

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 竜飛岬を後にして、全くと言っていいほど民家の見当たらない海岸沿いの道をしばらく走ると、十三湖(じゅうさんこ)が見えてきた。かつて海だった部分が砂州の発達でしだいに内陸に閉じ込められたいわゆる潟湖の一つだ。
 特にその西端の海に通じるあたりは十三湊(とさみなと)と呼ばれ、中世にこのあたりを支配した安藤氏の拠点で、日本海側有数の港湾だったところ。今はすっかり農村となってしまったが、東西に伸びる土塁などが今なお残り、往時を偲ぶことができた。
 その後、津軽平野を突っ切って金木町(現五所川原市)の斜陽館(写真)へと向かう。
 作家太宰治の生家として知られるこの建物、今は市の施設として一般に公開されている。
 施設の女性職員の方に、家長の部屋、家人の部屋、使用人の部屋、田畑管理用の部屋、金融業関係の部屋…と次々に案内され、さらに建物のまわりの不釣り合いなまでの高い煉瓦塀は小作人の襲撃に備えてのものだったとの説明を受けるうちに、私は一つの疑問を感じ始めていた。私的空間と公的空間が混然一体となった敷地面積680坪のこの巨大な建物の性質を、一体なんと言い表わすべきなのだろうかという疑問である。邸宅、事業所、管理事務所…、どれもしっくりこない。斜陽館とは一つの概念ではおよそ収まりがつかない、実につかみどころがない建物なのだ(ちなみに当日いただいたパンフレットには「太宰治記念館「斜陽館」(旧津島家住宅)」とあり、一応「宅地」として扱っている)。
 多少の息苦しさを感じながら、さらにつらつら考えてみたのだが、最後まで的確な答は見つからなかった。戦前の寄生地主制の姿とその矛盾が凝縮された場所―、そう記しても、決して大仰に過ぎることはないであろう…。それがさしあたっての私の結論。
 そして、戦後農地改革で寄生地主制が解体していく中、この建物が人手に渡ることになったのは歴史の必然、斜陽館と称されることになったのは歴史の皮肉というべきか。
 気がつくと窓越しに西日が差しこみ始め、建物は文字通り「斜陽」に包まれだしていた。私たちは金木の街をあとにして、黒石温泉郷の青荷温泉に向かった。

by takeshi_yamagen | 2011-08-03 04:34 | 日本たびたびまた旅日記  

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