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元史建歴9 私にはドラえもんがいませんでした

 08.2.27
 1968年4月、私は京都市立養徳小学校に入学した。
 その直後に私は人生最初の試練に直面することになる。「いじめ」である。ものは取られる、自宅の中まで入ってきて殴られると凄まじい限りだった。自分でいうのもなんだが、腕力はないけれど結構心やさしく、ちょっと頑固だった私は、スネ男のように長いものにまかれる「処世術」を身につけることもできず、結果いじめっ子ジャイアン(同級生のA君)の恰好のいじめの対象となったわけだ。そんな典型的なノビ太タイプの私の不幸は、そばに助けを求めるドラえもんがいなかったことである。
 ところで、そんな時いじめられっ子はどう対処するかご存知だろうか。「なにくそと、いじめをばねに発憤する」という人がいるかもしれないが、それはウソ、いじめを知らない人のせりふに過ぎない。そんな子もいるかも知れないが、大概のいじめられっ子にそんな覇気や元気はないのだ(あったらそもそもいじめられることもない)。正解は自分のプライドを自分でなくすこと。自分はだめな奴だと無理やり思いこんで「心の平安」を保つのである。それは、その後の私の性格にも影響して、今でも私は他人に比べてプライドはあまり高くない。それは長所とも言えるのだが、裏を返すと他人のプライドに鈍感だということでもある。明らかにそれは短所である。
 もう一つ質問。いじめられっ子が他人から言われて、最もショックを受けることばを皆さんはご存知だろうか。それは「いじめる方も悪いが、いじめられるおまえも悪い」といった類の言葉。まわりから、特に信頼している大人からそれを言われると、いじめられっ子は一人奈落の底に突き落とされたような救いようのない疎外感に襲われるのである。いじめで子どもが自殺を選ぶきっかけも、そんな大人の言葉にあることが多いのではないだろうか。
  はっきり言いたい。いかなる理屈を並べてもいじめは絶対に正当化できない。いじめという行為に関していうならば、いじめられっ子は絶対に悪くないのである。そして、いじめ根絶にまず必要なことはその「いじめは絶対悪である」というに立場に大人が揺るぎなく立つことである。
 少し前、教育委員会のある幹部の方が「いじめはどこにでもある」という発言をされていた。その意図がどこにあったにせよ、それを当時の私が聞いたなら「どこへ行ってもいじめからは逃れられないんだ…」と暗澹たる気持ちになったと思う。いじめられっ子の気持ちはなかなか届かないことを痛感した次第。その場に子どもがいなかったことがせめてもの救いであった。

by takeshi_yamagen | 2008-02-27 12:11 | 元 史 建 歴  

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