山元たけしの あの日その時、そしてこれから

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カテゴリ:能・狂言鑑賞記( 8 )

能は眠くてもいいんです ―女流能楽師立花香寿子さんの講演を聞いて―

 13.11.20
 観世流能楽師立花香寿子さんの講演があると聞いて能大好き人間の私としてはぜひ話を聞かねばと思ってちょっと前ですが9日市民文化会館に足を運びました(男女共同参画社会をめざす市民フォーラム 「女流能楽師としての能の世界」)。
 立花さんは「翁」など寿ぐ演目ではまだ楽屋に女性が入ることができないなど、封建的な名残りがまだある能楽の世界で苦労することが多いと言いながら、能の魅力を自らの体験も踏まえて縦横に語ってくださいました。
 印象に残ったのは「能が権力者に取り入ることで歌舞伎や文楽、落語などとは違った道を進んできた」との説明。
 逆説的ですが、そうであったからこそ過度に大衆迎合的な要素が入らず、人間の感情表現をとことん追究できたのではないでしょうか。権力に近い場所にいながら能楽がそれに迎合するような道をも選ぶことがなかった点を、私はむしろ評価すべきだと思うのですがいかがでしょう。
 また、講演では「能にはむずかしい、眠い、年寄りばかりというイメージがあるが、本来能はリラックスしてみるもの。眠っていただいてもいいのです」と開き直り?ともとれる衝撃発言も飛び出しました。講演当日赤旗の早朝配達もあって少々疲れ気味であった私は、その言葉に助けられて、さっそく能楽の「正しい鑑賞法」を何度か実践してしまいました。
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by takeshi_yamagen | 2013-11-20 13:44 | 能・狂言鑑賞記

添い遂げた女の物語 ―能「井筒」を観賞して―

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 本日午後は大好きな能を見に中崎町の大阪能楽会館に出かけました。
 今回の作品は伊勢物語の「筒井筒」をモチーフにした「井筒」。
 幼い頃井戸のはたで一緒に遊んでたこともあって、自然の成り行きで一緒になりました。浮気とかいろいろあったけど、逝ってしもた今となっては結構ええ男やったと思っています。えらい昔のことですけど…、てな話を在原業平の妻である紀有常の娘の霊が旅の僧に舞って聞かせるというのがそのストーリー。添い遂げた女の達成感と寂寥感が舞台からひしひしと伝わってきます。
 原作者の世阿弥先生が上花(傑作)と自画自賛するだけのことはあって、「赤旗」の早朝配達の後であったにも関わらず、睡魔に襲われることもなく?最後まで楽しむことができました(まぁ一応「眠眠打破」を懐に忍ばしてはいましたが…)。
 同時に上演された狂言は「萩大名」。
 愚鈍な田舎大名に和歌を覚えさせようとする太郎冠者、しかしあまりの物覚えの悪さに途中で「任務放棄」。そこで慌てふためく大名役の善竹忠亮さんの演技が最高!
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by takeshi_yamagen | 2013-10-12 22:57 | 能・狂言鑑賞記

今回は悲しい舞いを堪能しました ―能「三輪」を観賞して―

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 先日、なんとか時間をつくって趣味の能観賞に出かけました。今回の作品は「三輪」。
 ストーリーはごく大雑把に言うと大和三輪山の神が僧に救いを求めるというもので、神仏習合、本地垂迹説(神も仏に救われるという考え方)が色濃く出たいかにも中世らしい作品です。
 ただ、今回の作品に関してはそんなストーリー展開よりも、私の目をくぎ付けにしたのはシテ(女面をつけた三輪明神)の優美な舞いです。おそらく中世の人々はその神の姿に亡くなった縁者―特に突然亡くなったり、非業の死を遂げたりした者―への思いを重ね、その成仏を願ったのではないでしょうか。
 特にその三輪明神が渡り廊下に消えていく直前、おもむろに立ち止り、さっと左手を上げ着物の裾をたくし上げるしぐさ―現世への決別―は胸に迫るものがありました。
 今回は実に悲しいお能でした。
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by takeshi_yamagen | 2012-06-05 10:22 | 能・狂言鑑賞記

先日見た能はちょっと物足りませんでした

 12.2.9
 先日大好きな能を楽しみに岸和田まで足をのばしました。
 最初の演目橋弁慶は京の五条の橋の上での有名な牛若丸義経と弁慶の出会いを描いた上演時間の短い能(半能)です。
 二番目の演目は、鞍馬天狗。
 鞍馬山の山伏が、花見にやってきた沙那王(若き日の義経)と意気投合、「自分は鞍馬山の大天狗である」と告げます。翌日、鉢巻・薙刀を携えて紗那王が待ち受けていると、各地の天狗たちを引き連れた大天狗が登場し、兵法の奥義を牛若丸に相伝し、戦場での守護を約束する―、ざっとこんなストーリーです。
 解説の方はNHKの大河ドラマ「平清盛」を意識したわけではないとおっしゃっていましたが、人気のある牛若丸ネタを意識的に揃えられたのは間違いありません。それはそれでわかりやすかったのですが、両作品がともに作品自体が能面をつけない直面(ひためん)中心になっているため、面のかすかな動きで心情を表現するといった能の醍醐味が十分味わうことができず、正直言って物足りませんでした。
 両者の間の演じられた狂言鞍馬参りは、夢の中で鞍馬山の多聞天から福を頂いたとご主人様に報告し、彼から福を渡すよう命じられた太郎冠者が、ただ渡すのも悔しいので福渡しという儀式をしないと福が渡らないと言ってご主人様を自分の前にひざまずかせたりするストーリーでしたが、こちらも話が落ちきらなかった印象があります。
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by takeshi_yamagen | 2012-02-09 23:19 | 能・狂言鑑賞記

久しぶりの能・狂言でした②

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 能「藤戸」に先だって上演されたのが狂言「文山立(ふみやまだち)」です。
 舞台左側通路(橋掛り)から「やれ、やれ」「やるまいぞ、やるまいぞ」と現れた二人の山賊。一方は「やってしまえ」と言ったのに、一人は「逃がしてやれ」の意味に勘違い。お互い「お前とはいつもうまくいかない」と口論になり、果たし合いを始めます。しかし、誰にも知られずに死んだら犬死だから、せめて妻子に書置きを残そうということになり、手紙を書き始めますが、次第にその内容が家族への思いに移り、二人は泣き出します。やがて「しょせんはお互いの胸にしまっておけばすむこと」と仲直りし、連れ立って帰るというお話。

 二人が意地の張り合いをするのは勝手だが、実はまわりが迷惑していることに気がつけよっていうこと、今でもよくある話です。被災者が大変困っているのにお互い足の引っ張り合いばかりしている自民・公明両党と民主党の議員に、ぜひ見てもらいたい狂言です。
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by takeshi_yamagen | 2011-07-10 05:46 | 能・狂言鑑賞記

久しぶりの能・狂言でした

 11.7.9
 入ったのも早かったのですが、史上第三位の早さで梅雨が明けた昨日、大阪市内の大槻能楽堂へ能・狂言の観賞に出向きました。実は私、能・狂言のファンで、1年に一度は出かけるようにしているのですが、昨年は選挙前ということもあって見そびれ、2年ぶりの観賞となった次第。要は2年間「能なし」の人生を送ってきたわけです。これ本当の話、狂言ではありません!?

 さて、今回の演目は「藤戸」です。
 備前国藤戸(現在の岡山県倉敷市内)の合戦で、先陣の功のあった源氏の佐々木盛綱は、恩賞によりその辺りの土地を得、新領主として入部します。
 まず、彼は領民の声を聞くべく、訴えのある者は申し出るよう領内に触れます。すると、一人の老婆がやって来て、罪もないわが子が盛綱に殺された恨みを述べます。盛綱は去年3月の藤戸の合戦の折、手柄を立てようと土地の漁師であった彼女の息子に浅瀬を聞き出しますが、密告を恐れて彼を殺したことを告白します。老婆は悲しみを新たにし「自分も殺してほしい」と詰め寄りますが、盛綱は前非を悔いた上で老婆を慰め帰宅させます。
 盛綱は早速漁師を弔うべく読経していると、今度はその漁師の亡霊が現れ、身の不運を嘆き、殺された時の様子を再現して見せ、悪龍となって恨みを晴らそうと思ったが、意外にも回向を受けたので成仏の身になったと告げ、消え去ります。ざっとこんなストーリーです。
 理解に苦しむのは、老婆とその息子の亡霊がともに盛綱にその恨み、無念さを、盛綱につかみかからんばかりに渾身の思いをこめて訴えるものの、彼の反省の弁と供養の約束でともに鉾を納めたこと。「謝って供養してすむなら警察いらんやろ」「母と子は本当に納得したんやろか」と、思わず現代的発想をしてしまいましたが、能では激しい感情表現に詩的な結末が続くことはよくあるとのことです。
 単純な勧善懲悪では計り知れない当時の思想的な背景―、それがなにか、色々思いを巡らすのも能の楽しみの一つかも知れません。
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by takeshi_yamagen | 2011-07-09 12:22 | 能・狂言鑑賞記

優美な舞い、勇壮な舞い、ビジュアルな能を堪能しました

 09.5.17
 昨晩、池田市民文化会館で能・狂言を楽しんできました。
 最初の演目は「杜若」(かきつばた)。  
 諸国を巡る僧が、三河国に着き、沢辺に咲く今を盛りの杜若を愛でていると、ひとりの女が現れ、ここは在原業平ゆかりの杜若の名所八橋(やつはし 現在の愛知県知立市八橋)の地であることを話します。さらに女は、僧を自分の庵に案内した後、自分が杜若の精であると明かしたうえで、業平が歌舞の菩薩の化身であり、その和歌の言葉は非情の草木をも救いに導く力を持つと語ります。そして、伊勢物語に記された業平の恋や歌を引きながら、幻想的でつややかな舞いを舞う…、そんな作品です。
 続いて演じられた「石橋」(しゃっきょう)は中国・インドの仏跡を巡る旅を続ける寂昭法師(大江定基)が、中国の清涼山(しょうりょうぜん)にある深い谷にかかる石橋付近に着いた時、橋の向こうから文殊菩薩の使いである獅子が現われ、香り高く咲き誇る牡丹の花に戯れながら獅子舞を舞うという話。
「杜若」のしっとり落ち着いた優美な舞い、「石橋」の舞台狭しと二頭の獅子が跳ねまわる勇壮な舞い、ともに十分目を楽しませてくれました。昨年5月に見た「景清」を親子の情愛というストーリー性重視とするならば、今回の作品はいずれもお客さんの視覚に訴えるビジュアル系作品と言えるでしょう。能の演目の幅広さを実感した次第。
 両作品の間に演じられた狂言は「清水」。
 茶会を催す主人に清水に行って水を汲んでくるよう命じられた太郎冠者。茶会の度に清水へ行かされるのを嫌った彼は、鬼が出たと言って戻ってきます。主人が不審に思って清水まで見に行くというので、太郎冠者は先回りして鬼の面をつけて主人を脅しましたが、鬼があまりに太郎冠者をひいきすることが発端となって、結局主人にばれてしまうというストーリー。調子にのると失敗するということか。いや、おもしろかったです。
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by takeshi_yamagen | 2009-05-17 11:36 | 能・狂言鑑賞記

生まれて初めて能を鑑賞しました

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 5/4付のブログでも書きましたが、能を題材にした小説(瀬戸内寂聴『秘花』)を今読んでいます。
「思い立ったら吉日」というわけでもないのですが、9日、生まれて初めて能の舞台を見に、大阪市内の大槻能楽堂に足を運びました。
 演目は「景清(かげきよ)」。
 源氏の世を見るのをよしとせず、自らの両目を抉り取り、日向の国宮崎で乞食同然の生活を送る平家の武将悪七兵衛景清。その景清を探して鎌倉から娘の人丸が従者を連れてやってきます。一度は「知らない」と偽って娘を追い返した景清ですが、里人のとりなしで娘との涙の対面を果たし、屋島の合戦の様子を舞って聞かせるのでした。
 えっ、感想?「よかった」の一言です。
 父に泣きすがる人丸、衰えた体を精一杯奮い立たせて舞った後、去っていく娘の肩にそっと手をやる景清…、父娘の情愛が胸に迫って来ました。
 話の展開が分からず眠ってしまわないか、正直言ってちょっと心配だったのですが、会場ですべてのせりふ(上演詞章)を記した資料が配られたうえ、上演前に簡単な解説もあったので、それは全くの杞憂、最後まで目は舞台に釘づけでした(もっとも、右前方の女性はずっと眠っておられましたが…)。
 さて、能に先立って演じられた狂言は「文荷(ふみにない)」。
 主人に恋文を届けるよう命じられた太郎冠者と次郎冠者は、途中でその文面を読んでしまって大笑い、挙げ句の果てに手紙を破いてしまったところを主人に見つかり、慌てふためく、といったお話。狂言独特の小気味よい動きと軽妙なせりふ回しに会場のあちこちから笑いが漏れていました。
 能狂言の世界。結構はまってしまいそうです。
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by takeshi_yamagen | 2008-05-12 17:26 | 能・狂言鑑賞記