米沢・越後紀行④ 共産党の大会はいつも山の上です -山形県五色温泉―
2010年 08月 31日
10.8.31
12月25日に大正天皇が死去し、昭和と改元、わずか1週間の昭和元年を経て、国民は昭和2年の新年を迎えることになる…、とまぁ、1926年暮れから翌年の年始にかけて国民は慌しい時間を過ごすことになったのだが、その改元の3週間前の12月4日、山形県の南東隅の雪深い温泉宿で「東京の電機会社の慰労会」が開かれた。その参加者十数人の「慰労会」こそ、極秘裏に開かれた日本共産党の第3回大会であったのだが、温泉宿の主人と特高警察がそのことを知るのは時代が昭和になってからのことであった。
実は、その記念すべき党大会の会場こそ、私が25日に訪れた米沢市の五色温泉なのである(豊中市庄内にあるスーパー銭湯の五色温泉とは関係ありません)。当時の部屋も残っていると聞いていたので、一度は訪れたいとかねがね思っていたのだが、今回その願いが実現したわけである。
どうせなら先輩たちに倣って、歴史の追体験とばかりに「車ではなく徒歩で行こう」と決意し、「まぁ、1時間ほどで着くでしょう」と登り口にある酒屋の奥さんの一言に「それくらいかぁ」と高をくくったのが大きな間違い。登っても、登っても目的地に着かないではないか。
よくもまぁ、こんなけわしい…、当時は未舗装の雪道を…、84年前に同志たちは登ってきたものだ…、1月に伊豆で行われた25回大会も、会場まで坂道を歩かされたが、昔も今も共産党の大会は足腰が鍛えられるなぁ、などとぶつぶつ言いながら、時々倒れてあえぎながら登ること1時間50分、前方が開けてやっと木造の五色温泉の建物が見えてきた。
12月25日に大正天皇が死去し、昭和と改元、わずか1週間の昭和元年を経て、国民は昭和2年の新年を迎えることになる…、とまぁ、1926年暮れから翌年の年始にかけて国民は慌しい時間を過ごすことになったのだが、その改元の3週間前の12月4日、山形県の南東隅の雪深い温泉宿で「東京の電機会社の慰労会」が開かれた。その参加者十数人の「慰労会」こそ、極秘裏に開かれた日本共産党の第3回大会であったのだが、温泉宿の主人と特高警察がそのことを知るのは時代が昭和になってからのことであった。
実は、その記念すべき党大会の会場こそ、私が25日に訪れた米沢市の五色温泉なのである(豊中市庄内にあるスーパー銭湯の五色温泉とは関係ありません)。当時の部屋も残っていると聞いていたので、一度は訪れたいとかねがね思っていたのだが、今回その願いが実現したわけである。
どうせなら先輩たちに倣って、歴史の追体験とばかりに「車ではなく徒歩で行こう」と決意し、「まぁ、1時間ほどで着くでしょう」と登り口にある酒屋の奥さんの一言に「それくらいかぁ」と高をくくったのが大きな間違い。登っても、登っても目的地に着かないではないか。
よくもまぁ、こんなけわしい…、当時は未舗装の雪道を…、84年前に同志たちは登ってきたものだ…、1月に伊豆で行われた25回大会も、会場まで坂道を歩かされたが、昔も今も共産党の大会は足腰が鍛えられるなぁ、などとぶつぶつ言いながら、時々倒れてあえぎながら登ること1時間50分、前方が開けてやっと木造の五色温泉の建物が見えてきた。
by takeshi_yamagen | 2010-08-31 22:08 | 日本たびたびまた旅日記