カテゴリ:山元家の人々( 25 )

地域の子どもたちに慕われて ―父二郎の葬儀でのあいさつから④―

 18.10.15

 このように概ね悔いのない人生だったと思いますが、今頃残念に思っているであろうことががいくつかあります。

 一つは今月下旬私たち家族と城崎に行くことになっており、父も大変楽しみにしていたようなのですが、叶いませんでした。

 また、実は父と全く同じ日、1932年9月30日に生まれた著名人が二人おられます。作家の五木寛之さんと石原慎太郎さんです。生前父は笑いながら「この二人より長生きするで」と豪語していたのですが、願いが叶うことはありませんでした。

 昨日週三日通っていた施設の方から、父は施設によく来る近所の小学生から「ジローさん、ジローさん」と言われて好かれていたと教えてもらいました。「あのいかつい顔でなぜだろう」と思っていたところ、子どもたちに将棋を教えてあげていたのがその理由だったようです。父は対局時子どもたちにも手加減しなかったとのことで、最期まで負けず嫌いだったことが窺えます。ただトランプの神経衰弱だけは子どもたちに連戦連敗だったようです。86年の生涯の最晩年に、未来を担う地域の子どもたちと接点をもち楽しく交流させてもらっていた…、ちょっと嬉しい話を伺いました。 

 長くなってしまいました。かつての職場の同僚のみなさん、紅梅温泉以来お世話になった豊中市庄内のみなさん、居を構えた池田市石橋のみなさん、本当にありがとうございました。深く御礼申し上げてあいさつに代えさせていただきます。


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by takeshi_yamagen | 2018-10-15 09:56 | 山元家の人々

銭湯経営、神戸の地震、そして父の思い…  ―父二郎の葬儀でのあいさつから③―

 18.10.15

 生業のうえでは、父は銭湯の設計建築を行う会社に長年勤めた後、この庄内の地で15年ほど自ら銭湯を経営し、私たち家族を養ってくれました。

 その銭湯経営時に大きな地震が起きました。阪神淡路大震災です。猪名川の向こうの兵庫県尼崎市では水道が止まって住民の方が困っているのを聞いた父はさっそく店を無料開放しました。この父の決断は府県を超えて多くの方に喜んでいただき、当時の毎日新聞でも報道されました。ただ同業者のごく一部から「山元の行いは組合の料金規定違反だ」との声が上がり、「みんな助け合わなあかん時にそんな杓子定規なこと言うかぁ」と父が嘆いていたことを覚えています。今年の北大阪の地震の際大阪の浴場組合が被災者の無料開放に乗り出したことを聞いて、災害自体は大変不幸なことだけれども、「父が先鞭をつけたことが今実を結んだのかな」と少し嬉しく思ったものでした。


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by takeshi_yamagen | 2018-10-15 09:41 | 山元家の人々

心優しいコミュニスト ―父二郎の葬儀でのあいさつから②―

 18.10.15

 そんな大人たちの影響を受けて父は育ったからでしょうか、差別がいけないことを常々私たちに説いていました。テレビなどで在日コリアやかつての未解放部落の人を蔑む場面を見聞きすると激しく憤っていたことが思い出されます。そんな父が若い頃(1950年代)身を置いたことのある共産党に再び入党したのは自然の流れであったと思います。父は所謂活動家ではありませんでしたが、ロマンティストであり、ヒューマニストであり、そしてなによりも心やさしいコミュニスト(共産党員)でありました。

 私たち兄弟が一人は地方自治、一人はマスコミと場所は違いますが、ともに自分たちでいうのもなんですが、社会的に弱い立場の人に心寄せ権力と対峙する場に身を置いているのも父の影響があることは間違いありません。

 


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by takeshi_yamagen | 2018-10-15 09:27 | 山元家の人々

立派な軍国少年に育ちましたが… ―父二郎の葬儀でのあいさつから①―

 18.10.14

 以下は11日の父の葬儀の際の私のあいさつです


 親族を代表して一言ごあいさつ申し上げます。

 本日はお足元の悪い中父二郎の告別式に足を運んでくださり本当にありがとうございます。7日の夜父は静かに旅立ちました。

 父は1932年(昭和7年)生まれです。物心ついた時日本はすでに戦争一色、父もお国のために命を捧げるのを誇りだと考える立派な軍国少年に成長したようです。ただ生前の父の話では山元家とその周辺の大人たちはどうも一様ではなかったようです。戦前京都で反戦活動に関わったことのある父母(私たちからみると祖父母)は当然戦争を快く思っていませんでした。また父の担任の先生(※)は、当時教師の指名が当たり前だった級長の選出を子どもたちの民主的な選挙に切り替えて、在日朝鮮人の子が級長になったこともあったらしく、民族差別の激しい頃ですので一時物議を醸したようです。

 ※この先生は戦後共産党の京都市会議員(左京区選出)を務められた神野七五三男(かんのしめお)さんです。





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by takeshi_yamagen | 2018-10-14 21:16 | 山元家の人々

父が逝きました

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 18.10.13

 7日夜、豊中市庄内に住む父二郎が亡くなりました。ふだんお世話になっている介護施設の方が翌朝父宅を訪ねた時にはすでに冷たくなっていたとのこと。歳相応の衰えはありましたが、今日明日の命に関わる病を患っていたわけではなく、まさしく急死。実際7日の日中は多くの人が普段と変わらぬ父の姿を見かけておられたのです。

 あまりに突然のことでまだ実感がわかないのですが、週三日通っていた施設の方の話によると、父は施設によく来る近所の小学生から「ジローさん、ジローさん」と言われて好かれていたとのこと。「あのいかつい顔でなぜだろう」と思っていたところ、子どもたちに将棋を教えてあげていたのがその理由だったようです。父は対局時子どもたちにも手加減しなかったといいます。父の負けず嫌いは最期まで変わらなかったようですね。

 86年の生涯の最晩年に、未来を担う地域の子どもたちと交流し彼らに喜ばれていた―、暖かい思いが胸の中にこみ上げてきました。とりあえず今日はこのへんで。


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by takeshi_yamagen | 2018-10-13 21:22 | 山元家の人々

山元たけしのファミリーヒストリー③ ―山元家と北海道―

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 18.4.9
 私の祖父山元正二(190676)は10人?兄弟の末子で学校を出るとすぐに家を出て、京都で働いている時に広島出身の祖母と知り合い父が誕生、そして今の私があるというわけです。一方その祖父の長兄忠蔵は大正の初め妻子とともに北海道に渡り旭川の北にある和寒(わっさむ)という町で炭焼きの仕事を始めたとのこと。普通長男が家を出ることは戦前の日本社会では考えられないのですが、そこにはどうも本家の複雑な事情があったようです。
 
さてその忠蔵、寒さに苦しみクマの出没に怯えつつも仕事自体はうまくいきかけていたようなのですが、1922(大正11)年7月突然死去(享年は40歳ぐらい。死因は脳梗塞系の疾患だったようです)。やむを得ず妻の志乃は子どもたちの手を引いて富山に引き上げて来ました。それ以来本家を守った彼女は1986年その99年の人生を閉じます(私も41年前の訪問の際1度だけ会っています)。
 
私の親族はほぼ全員が名古屋以西に住まいしており、東日本や北日本との関係はありません。したがってこの忠蔵のおよそ1世紀前のおよそ10年間の北海道での活動は山元家の唯一の例外といえます。祖父の長兄が北海道に渡ったことは以前から知っていましたが、その詳細を知り得たのは今回の訪問の大きな収穫だったといえるでしょう(写真は忠蔵・志乃夫妻の写真。忠蔵の写真は山元家の人物を写した現存最古のものと考えられます。08/5/13付当ブログ参照)。


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by takeshi_yamagen | 2018-04-09 10:38 | 山元家の人々

山元たけしのファミリーヒストリー② ―山深い農村からも「安倍NO!」の声-

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 18.4.8
 本家は4反(約5千㎡)の水田を経営しており、母屋の裏側の高台にあるその田んぼにも案内してもらいました。でもなにか変…。41年前は谷に沿って棚田が広がっていた記憶があるのですが、今回眼前に結構広々とした平坦な水田が広がっているではないですか。伺うと30年ほど前丘を削り谷を埋めてほ場整備が行われたとのこと。道理で景観も変わっていたわけです。「水田面積が増えトラクターも入るようになったけど、以前谷だったところから水が漏れるなど結構大変です」と苦笑しながら話されました。ほ場整備もいいことばかりではないようです。
 さらに「この前はため池の堤防にひびが入って難儀しました。また大雨で土砂崩れが起こって2、3年使えなくなった田もあります」と営農の苦労を教えてもらいました。こういった個々の農家の努力で日本の農業はなりたっているんですね。
 TPPや種子法廃止について伺うと「まぁ国のやることだし…」と言葉を濁されながら、安倍政権については「もうおしまいやな」(当主)、「外交でも仲間はずれっちゃ」(当主夫人)とキッパリ。「安倍やめろ」の声は山深い北陸の農村にも広がっています。
 なお思いがけず米30kg(半俵)を土産にいただきました。おいしく頂きます!


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by takeshi_yamagen | 2018-04-08 18:58 | 山元家の人々

山元たけしのファミリーヒストリー① ―41年ぶりに本家を訪問しました―

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 18.4.7
 先月29日、石川県との県境に近い富山の山あいにある山元家の本家を父と息子とともに訪ねました。私にとっては高1以来41年ぶりに訪問、当時新婚だった現在の当主(祖父の長兄の孫)夫妻もいいお歳になっておられました(まぁお互い様ではありますが…)。久々の再会を喜んで仏壇に手を合わせた後、さっそく他の親族回りも兼ねて家の周辺を歩いて回りました。
 驚いたのは日陰のところどころにまだ雪がかなり残っていたこと。「今年は雪が本当に多かった。家の軒先まで埋まりました。集落総出で雪下ろしをして各家にある除雪機をフル稼働しましたが、ほとんど追いつきませんでしたね」と話され、「おまけに機械の先で傷つけてしまいました」と側溝のコンクリートの破損部分を指さしながら続けられました。
 雪国の苦労を改めて思い知った次第です。


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by takeshi_yamagen | 2018-04-07 12:58 | 山元家の人々

その後のお風呂放浪記

 17.4.17
 家のお風呂が動かなくなりました。せっかくですからこの機に池田の銭湯を回ろうと決意、 昨日の五月湯で市内銭湯(といっても5軒)全部制覇しました。簡単にご紹介。
・平和温泉(石橋1丁目)…家から歩いていける唯一のお風呂。重宝してます。
・共栄温泉(豊島北2丁目)…小さいながらの露天風呂があります。星を眺めながら疲れをとりましょう。
・城南温泉(城南1丁目)…フロント横に小さいカウンターがあって一杯飲めます。う~ん誘惑にまけそう。ジェットバス系の湯船が四つあるのはうれしい限り。
・呉服(くれは)湯(栄町)…1949年開業。タイルの意匠などそこかしこに時代を感じるレトロなお風呂。入り口もフロント式ではなく番台式です。・五月湯(槻木町)…1932年創業の小じんまりしたお風呂。湯は僕好みの温度であぁ極楽、極楽。また壁面は大阪では珍しい富士山です。
 銭湯の建築設計を行う会社に勤めていたうちの父をご存じの方も多く、やっぱりうれしかったですね。また5軒のうち4軒は石川県小松のご出身。残りの1軒も富山で関西の銭湯が北陸の人に支えられていることが池田でも実証されました。

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by takeshi_yamagen | 2017-04-17 16:08 | 山元家の人々

お風呂放浪記 47年目の初体験

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 先日わが家のお風呂が故障してしまい、近所の銭湯や通勤途上にあるスーパー銭湯を利用しています。
 私の地元池田市石橋・豊島地域の銭湯は2012年に石橋温泉が廃業され2軒だけになってしまいましたが、一昨日はその一つ共栄温泉(豊島北2丁目)を訪ねました。
 実は大阪万博の年に引越ししてきて以来、結構長いイシバシスト歴を誇るワタクシ、お店の前の道は母校(北豊島小・中学校)に近かったこともあってそれこそ何百回と通ってきましたが、お店の暖簾は一度もくぐったことありませんでした。片道徒歩20分は「通学圏」ではあるが「通浴圏」(そんな日本語があるのかどうか知りませんが…)には入っていなかったということです。実際暖簾をくぐってみると寝風呂、腰掛風呂(ジェットバス)、電気風呂、サウナとラインナップが充実しており、小さいながら露天風呂もあり、「47年目の初体験」を結構堪能することができました(こう見えても私は元風呂屋のせがれ。お風呂チェックは結構厳しいのです)。
 安倍さん、南スーダンの事態はやっぱり「せんとう」って認めへんなぁ、そういえば志位さん、「ニューヨーク」に行くねんなぁ…。
 遠い異国に思いを馳せながら小一時間寛がせていただいた次第です。
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by takeshi_yamagen | 2017-03-20 14:23 | 山元家の人々