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藤木「勘兵衛」の旗のもと豊中総合法律事務所は10周年を迎えられました

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 18.10.29
 27日、日頃法律相談でお世話になっている豊中総合法律事務所開設10周年記念祝賀会にお邪魔しました。
 辰巳コータロー参院議員、宮本たけし衆院議員、石川たえ府議のあいさつの後、職員のみなさんからこの10年を振り返る発言が続きました。中でも興味深かったのは開設時のお話。北大阪総合法律事務所内で「新たに郊外の豊中に弁護士事務所をつくろう」となったまではよかったのですが、「裁判所も自宅も遠くなるのでしんどい」「採算取れるのか」という声が相次ぎ「誰が行くか最後はくじ引きで決めました」との秘話に会場は大きな笑いに包まれました。

 そんな開設時の苦難(?)を乗り越えて、当初4人(弁護士2人)で始まった事務所も今や7人(弁護士4人)へと大きく発展。この「7人の侍」が勘兵衛こと?藤木邦顕弁護士のもと、池田、豊中、箕面など豊能地域筋の住民の秩序と安寧を守り、時には悪い野武士をやっつけて日夜がんばってくださっています。
 最後に御年90歳の橋本敦さん(元日本共産党参院議員 弁護士)が「豊中は幼い頃過ごした懐かしい土地。また(豊中総合法律事務所に)雇ってもらおかな」と元気に8人目に立候補され会場を沸かせてくださいました(写真)。

 豊中総合法律事務所のみなさん、今後ともどうかよろしくお願いいたします。

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by takeshi_yamagen | 2018-10-29 12:57

安倍さん、まずは話し合わなきゃ

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 18.10.28
 9月19日に北朝鮮と韓国の両首脳が署名した「9月平壌共同宣言」は、4月の「板門店宣言」で合意した非武装地帯など対峙地域での軍事的敵対関係の終息を朝鮮半島全域にひろげ、「実質的な戦争脅威の除去と、根本的な敵対関係解消につなげる」と宣言しました。それを受け韓国、北朝鮮の軍事当局と国連軍司令部は22日、板門店の韓国側施設「自由の家」で3者会合を開き、板門店の共同警備区域(JSA)内の非武装化を25日までに行うことで合意、さらに3者はJSA内の地雷除去作業が完了したことを確認・評価するとともに、火器、見張り所の撤収の日程や、今後の警戒勤務のための人員調整や共同検証の方法などを協議したとのことです。韓国メディアは早ければ来月にもJSA内で観光客などが自由に南北を行き来できるようになると伝えています。

 3回の南北首脳会談、米朝首脳会談等、関係国が話し合いを重ねる中で朝鮮半島の緊張緩和、非核化が紆余曲折を経ながらも着実に進んでいることを私は本当に嬉しく思います。

 そこで気になるのはやはり「北朝鮮と対話のための対話はしない」と圧力一辺倒の姿勢を崩さない安倍首相。この態度を改めない限り、話し合いの糸口すら掴むことはできないのではないでしょうか(誰でも「会(お)うたらへん」て言うてる人に普通率先して会おうとは思いませんよね)。またこの特異な路線をとる日本を六カ国協議から外そうとの動きもあるとのこと。日本がいればまとまる話もまとまらないということでしょうか。なんとも情けない話です。

 さらに日本政府が進める大軍拡や9条改悪路線が、朝鮮半島の平和の動きに水を差し、場合によってはそれを頓挫させる要因にならないか、私はとても危惧しています。

 ところで中国を公式訪問している安倍首相は26日習主席や李首相と会談、習主席は会談の冒頭「日中関係が正しい軌道に戻り、前向きな勢いを見せている」と発言、それに先立つ李首相との共同記者会見で首相は、日中関係について「競争から協調へ新たな段階に移りつつある」と協調、「互いに協調のパートナーであり互いに脅威にならないとの原則を確認した」と述べたとのこと。

 日中はなにかとぎくしゃくしている関係の改善へ一歩を踏み出したと言えそうです。安倍さん、話し合い、やればできるじゃないですか。この調子で今度は北朝鮮との話し合いに臨んでくださいね。


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by takeshi_yamagen | 2018-10-28 15:23 | 打倒!安倍政権

フィリピンのアツアツカップル

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 18.10.25
 東福寺に向かう際利用した阪急電車で向かいに座られた外国人の若い男女、フィリピンから来られた結婚1年目のアツアツカップルでした。道頓堀でタコヤキ、オコノミヤキ、オスシ、ギョーザ(?)を食べた後、嵐山にバンブーロード(竹の小径)を見学しに行かれるとのことでしたが、「京都は他にどこに行かれるんですか」と伺うと「明日帰国するので嵐山だけです」との返事。思わず私は「これでは京都にデンしにいくようなもんやんか。もったいない!」と日本語で突っ込んでしまいました。「嵐山なら次の桂で乗り換えやで」と教えてあげたところ、お礼にフィリピンの100ペソ札(およそ200円)をいただきました。Have a nice day!



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by takeshi_yamagen | 2018-10-25 10:36 | 出会い 一期一会

庭に込められた反戦メッセージ ―東福寺訪問記②―

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18.10.25
 方丈庭園北庭の続き。

 一辺一尺ほどの正方形の白い石が交互に配され、苔むす地肌とみごとな市松文様をなしています。しかしよく見ると向かって右側(東側)に行くにしたがって市松文様は崩れ、正方形の石も背後の谷に落ち込むように散らばってまばらになっていっています。実はかの御婦人が涙したのがこの北庭です。はたして重森さんの訴えたかったことは何だったのか、そして彼女の涙の意味は…?

 私は欄干に軽く手を置いて市松文様を見下ろしながらしばし熟考。手がかりはやはり文様を構成する正方形の石の粗密さ―。そう、整然とした市松文様が徐々に崩れ散らばっていく様は人間社会の崩壊を、正方形の石で表わされる個人からみればそこからの落伍を示しているのではないか。おそらく涙した御婦人は慣れ親しんできた社会の喪失、大切な人々との不条理な別れなど、自らが経験してきた悲しい出来事をこの市松文様に重ねたのではないか。そしてその悲しい出来事とはおそらくは戦争であり、彼女は重森さんの込めた反戦のメッセージを読み取り、心揺さぶられたのではないでしょうか。これが私のさしあたっての結論です。

 さらに想像をたくましくすれば、人々の悲しみを表す北庭と対をなす南庭の巨大な横石は伝説の島でも鯨でもなく軍隊の象徴たる艦隊を、東庭の北斗七星は重森さんの反戦の揺るぎない決意を示しているのではないでしょうか。

 方丈庭園がつくられたのは日中戦争が泥沼化しつつあった1939(昭和14)年であることから考えて、この私論、あながち暴論ではないと思うのですが、みなさんいかがでしょうか。この革新的な庭園に実際に出向かれて一度お考えくださいませ。







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by takeshi_yamagen | 2018-10-25 10:31 | 日本たびたびまた旅日記

御婦人の涙 ―東福寺訪問記①―

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18.10.24   重森三玲(しげもり みれい 18961975)という人については、そのお名前と昭和期の作庭家であることぐらいは知っていたのですが、特に強い関心を持ってきたわけではありませんでした。しかし少し前ある本の「彼の作品を見て涙した西洋の御婦人がいた」という文章に触れ「西洋人が涙する日本庭園、一度見てみなければ」と俄然興味が沸いてきました。

 そのお庭があるのが、重森さんを知る前から一度は行ってみたいと思っていた京都市東山区の東福寺です。休暇を利用して昨日思い切って訪ねてきました。

 室町時代初期の巨大な三門を見上げながらまず紅葉の名所通天橋を見学(まだ色づきはちらほら。お客さんもさほど多くありませんでした)、その後目的の方丈庭園に向かいます。大方丈と呼ばれる禅宗建築の四方を枯山水の庭がとりまいているのですが、入口の渡り廊下の右側の、長さの異なる七つの円柱石(北斗七星を表すらしい)からなるこじんまりした東庭を見やり、やおら視線を左に移すと大海を表す白砂に浮かぶ巨石群が目に飛び込んできます。南庭です。北山の龍安寺石庭をダイナミックにしたようなこのお庭、横長の石を位置をずらしながら平行に配している様子が実に個性的。パンフレットによると中国古来の蓬莱神仙思想による四仙島を表しているとのことですが、波しぶきを上げて進む鯨の群れのようにも見えます。さらに植え込みを市松文様に配した西庭を見た後北庭へと向かいました。

 






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by takeshi_yamagen | 2018-10-24 22:00 | 日本たびたびまた旅日記

共産党、議会選挙も善戦健闘!

 18.10.22

 大山崎町と川西市では議員選挙でも共産党の健闘が光りました。

 まず京都府大山崎町では得票率29%、つまり10人中3人の方に共産党の候補を書いていただき、議席を3から4に伸ばしました。ちなみに定数が12ですので議席占有率は33%、これは共産党としては全国トップです。

 お隣の川西市でも議席は3議席と現状維持ですが、得票は8,134票と前回より1,529票伸ばし、日頃お世話になっている黒田美智さんはトップ当選されました。得票率も12.10%と前回より1.36%増。一方維新は4人立てるも2人当選に留まりました。

 情勢の激動を予感させる選挙結果に、結局なかなか寝付かれないまま国際反戦デーの夜は更けていきました。


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by takeshi_yamagen | 2018-10-22 13:20 | 日本共産党はこんな政党です

自民ドミノ倒し 沖縄から本土へ

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 18.10.22

 父の死去にともなうなんやかやで結構疲れがたまってきて、昨日(21日)は資料整理など軽めの仕事にとどめ、「早めに寝ようか」と思っていたところ、沖縄からオール沖縄の城間幹子候補が自公推薦候補にダブルスコアをつけて圧勝したニュースが飛び込んできました。これで沖縄は県知事選、豊見城市長選に続いてオール沖縄3連勝です。

 さらに京都府大山崎町でも政党としては共産党のみが支持する前川光氏が僅差で、お隣の兵庫県川西市では共産党が自主支援する越田けんじろう候補がダブルスコアで、自民推薦候補に勝利したニュースが続きました。ちなみに浜田幸一を輩出した強固な保守地盤千葉県君津市の市長選でも先週自公推薦候補が破れています。

 まさに自民推薦候補ドミノ倒しの連続敗退!「安倍NO!」の声は沖縄から本土へと静かに、そして急速に広がってきています。


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by takeshi_yamagen | 2018-10-22 12:18 | 打倒!安倍政権

地域の子どもたちに慕われて ―父二郎の葬儀でのあいさつから④―

 18.10.15

 このように概ね悔いのない人生だったと思いますが、今頃残念に思っているであろうことががいくつかあります。

 一つは今月下旬私たち家族と城崎に行くことになっており、父も大変楽しみにしていたようなのですが、叶いませんでした。

 また、実は父と全く同じ日、1932年9月30日に生まれた著名人が二人おられます。作家の五木寛之さんと石原慎太郎さんです。生前父は笑いながら「この二人より長生きするで」と豪語していたのですが、願いが叶うことはありませんでした。

 昨日週三日通っていた施設の方から、父は施設によく来る近所の小学生から「ジローさん、ジローさん」と言われて好かれていたと教えてもらいました。「あのいかつい顔でなぜだろう」と思っていたところ、子どもたちに将棋を教えてあげていたのがその理由だったようです。父は対局時子どもたちにも手加減しなかったとのことで、最期まで負けず嫌いだったことが窺えます。ただトランプの神経衰弱だけは子どもたちに連戦連敗だったようです。86年の生涯の最晩年に、未来を担う地域の子どもたちと接点をもち楽しく交流させてもらっていた…、ちょっと嬉しい話を伺いました。 

 長くなってしまいました。かつての職場の同僚のみなさん、紅梅温泉以来お世話になった豊中市庄内のみなさん、居を構えた池田市石橋のみなさん、本当にありがとうございました。深く御礼申し上げてあいさつに代えさせていただきます。


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by takeshi_yamagen | 2018-10-15 09:56 | 山元家の人々

銭湯経営、神戸の地震、そして父の思い…  ―父二郎の葬儀でのあいさつから③―

 18.10.15

 生業のうえでは、父は銭湯の設計建築を行う会社に長年勤めた後、この庄内の地で15年ほど自ら銭湯を経営し、私たち家族を養ってくれました。

 その銭湯経営時に大きな地震が起きました。阪神淡路大震災です。猪名川の向こうの兵庫県尼崎市では水道が止まって住民の方が困っているのを聞いた父はさっそく店を無料開放しました。この父の決断は府県を超えて多くの方に喜んでいただき、当時の毎日新聞でも報道されました。ただ同業者のごく一部から「山元の行いは組合の料金規定違反だ」との声が上がり、「みんな助け合わなあかん時にそんな杓子定規なこと言うかぁ」と父が嘆いていたことを覚えています。今年の北大阪の地震の際大阪の浴場組合が被災者の無料開放に乗り出したことを聞いて、災害自体は大変不幸なことだけれども、「父が先鞭をつけたことが今実を結んだのかな」と少し嬉しく思ったものでした。


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by takeshi_yamagen | 2018-10-15 09:41 | 山元家の人々

心優しいコミュニスト ―父二郎の葬儀でのあいさつから②―

 18.10.15

 そんな大人たちの影響を受けて父は育ったからでしょうか、差別がいけないことを常々私たちに説いていました。テレビなどで在日コリアやかつての未解放部落の人を蔑む場面を見聞きすると激しく憤っていたことが思い出されます。そんな父が若い頃(1950年代)身を置いたことのある共産党に再び入党したのは自然の流れであったと思います。父は所謂活動家ではありませんでしたが、ロマンティストであり、ヒューマニストであり、そしてなによりも心やさしいコミュニスト(共産党員)でありました。

 私たち兄弟が一人は地方自治、一人はマスコミと場所は違いますが、ともに自分たちでいうのもなんですが、社会的に弱い立場の人に心寄せ権力と対峙する場に身を置いているのも父の影響があることは間違いありません。

 


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by takeshi_yamagen | 2018-10-15 09:27 | 山元家の人々