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元史建歴9 私にはドラえもんがいませんでした

 08.2.27
 1968年4月、私は京都市立養徳小学校に入学した。
 その直後に私は人生最初の試練に直面することになる。「いじめ」である。ものは取られる、自宅の中まで入ってきて殴られると凄まじい限りだった。自分でいうのもなんだが、腕力はないけれど結構心やさしく、ちょっと頑固だった私は、スネ男のように長いものにまかれる「処世術」を身につけることもできず、結果いじめっ子ジャイアン(同級生のA君)の恰好のいじめの対象となったわけだ。そんな典型的なノビ太タイプの私の不幸は、そばに助けを求めるドラえもんがいなかったことである。
 ところで、そんな時いじめられっ子はどう対処するかご存知だろうか。「なにくそと、いじめをばねに発憤する」という人がいるかもしれないが、それはウソ、いじめを知らない人のせりふに過ぎない。そんな子もいるかも知れないが、大概のいじめられっ子にそんな覇気や元気はないのだ(あったらそもそもいじめられることもない)。正解は自分のプライドを自分でなくすこと。自分はだめな奴だと無理やり思いこんで「心の平安」を保つのである。それは、その後の私の性格にも影響して、今でも私は他人に比べてプライドはあまり高くない。それは長所とも言えるのだが、裏を返すと他人のプライドに鈍感だということでもある。明らかにそれは短所である。
 もう一つ質問。いじめられっ子が他人から言われて、最もショックを受けることばを皆さんはご存知だろうか。それは「いじめる方も悪いが、いじめられるおまえも悪い」といった類の言葉。まわりから、特に信頼している大人からそれを言われると、いじめられっ子は一人奈落の底に突き落とされたような救いようのない疎外感に襲われるのである。いじめで子どもが自殺を選ぶきっかけも、そんな大人の言葉にあることが多いのではないだろうか。
  はっきり言いたい。いかなる理屈を並べてもいじめは絶対に正当化できない。いじめという行為に関していうならば、いじめられっ子は絶対に悪くないのである。そして、いじめ根絶にまず必要なことはその「いじめは絶対悪である」というに立場に大人が揺るぎなく立つことである。
 少し前、教育委員会のある幹部の方が「いじめはどこにでもある」という発言をされていた。その意図がどこにあったにせよ、それを当時の私が聞いたなら「どこへ行ってもいじめからは逃れられないんだ…」と暗澹たる気持ちになったと思う。いじめられっ子の気持ちはなかなか届かないことを痛感した次第。その場に子どもがいなかったことがせめてもの救いであった。
# by takeshi_yamagen | 2008-02-27 12:11 | 元 史 建 歴

元史建歴8 川と山の京都時代

 08.2.26
c0133503_15574880.jpg 山元家の4人は1967年10月、京都市左京区高野に引っ越した。父が家を購入して京都の祖父母と一緒に暮らすことになったわけだ。もっとも、勤務先が引き続き大阪だった父は、通勤が結構大変だったようで、仕事が遅くなると帰って来れず、よく会社の寮に泊まり込んでいた(写真は68年1月 自宅前で弟と)。
 京都市内といってもさすがに郊外、夏にランニングシャツ姿で往来を歩いても全く違和感がないくらいの田舎で、人々の暮らしもどこかのんびりしていた。また、まだまだ自然も豊かで、家のすぐ近所の高野川に足を浸し、時には松ヶ崎の大黒山を越えて宝ヶ池、国際会議場あたりまで遠出、そして比叡山もその中腹あたりまでは完全に子供たちの行動半径に入っていた。吹田時代を「池と丘」で代表させるならば、私にとって京都はさしずめ「川と山」であったと言えるであろう。
 高野川はなんといっても水がきれい、毎日のように網を片手にオイカワやドジョウつかみに興じていた。同時に、この高野川、頭に縞模様のある少し気持ち悪い魚が”ぬぅ”と現れたり、石の隙間から細長いヘビのような魚が飛び出してきたりと、得たいの知れない魚が時々子どもたちを驚かせる川でもあった。今から思うとそれはタイワンドジョウとウナギであったと思うのだが。
 一方、比叡山は昆虫の宝庫だった。様々な種類の美しいカミキリムシや蝶を捕らえたときの心臓の高鳴り、さらに昆虫図鑑でその名前を知りえたときの本から昆虫たちが飛び出してくるような爽快さ、今でも鮮明に思い出される(ちなみに当時の昆虫図鑑は今でも使用している)。
 このように吹田時代同様、「野生児」生活をエンジョイしていたわけだが、小学校入学後の私には、とんでもない試練が待ちうけていた。これについてはまた次回に。
# by takeshi_yamagen | 2008-02-26 12:35 | 元 史 建 歴

パワーポイントが登場しました

 08.2.25c0133503_1210538.jpg
 21日付ブログでお伝えしたように、一昨日(23日)午後2時より石橋駅前会館におきまして、市政報告会を開催しました(写真上)。
 まず、堀田文一府会議員から橋下知事の元での府政について、その後に村上弘充衆院大阪9区国政対策委員長からイージス艦事件や派遣労働者の問題を中心とした国政の動向についてのお話が続きました。いずれの話も自民・公明の悪政の元での日本共産党の奮闘ぶりを交えたもので、大変興味深いものでした。
 その後、私が12月議会の報告と3月議会の予定についてお話させて頂きました。実は今回、垣田議員や藤原議員に学んでパワーポイントを使用したビジュアルな報告を試みた次第、不慣れなため一部見苦しい点もありましたが、概ね好評であったように思います。c0133503_12113474.jpg
 なお、参加者から「後期高齢者制度反対の運動を強めてほしい」「空港地域の未解決課題の実現に奮闘してほしい」などの御意見を頂戴しました。3月議会をはじめとした今後の活動に生かして参ります。

 閑話休題。
 昨日の朝、珍しく池田でも雪が積もりました。花壇の花も寒そうです(写真下)。 
# by takeshi_yamagen | 2008-02-26 12:18 | 住みよい石橋・豊島・鉢塚・緑丘をめざして

石橋には悪い人はいないと、今まで信じてきたのですが…

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 石橋1丁目の旧西国街道沿いに設置した私の看板の顔写真部分が何者かに傷つけられました。隣の他党のポスターなどは無傷なので、やはり私の看板を狙ったのでしょう(写真)。これで昨秋から3本続けてやられたことになります。
 写真の位置は看板の最上部にあたっており、いずれも刃物かなにかでかなりしつこく切られていることから、子どもの仕業とは到底思えません。看板を作るにはそれなりのお金と労力がかかります。また、自分の顔写真が傷つけられるのはやはりいい気はしません。このような行為に及んだ人は、そこまで思い到ることはなかったのでしょうか。私が知っている石橋・豊島地域の方は本当にいい人ばかりです。しかし、一部にこのような悪いことをする人がおられるのですね。残念です。そして悲しいです。
 
 なお、2月23日(土)午後2時より石橋駅前会館におきまして、私の市政報告会を開催します。どうかお誘い合わせの上、お越しくださるようよろしくお願いいたします。 
# by takeshi_yamagen | 2008-02-21 10:50 | 住みよい石橋・豊島・鉢塚・緑丘をめざして

湘南・鎌倉紀行⑤ 坂東武者のよみがえる武都鎌倉

 08.2.21
c0133503_10375621.jpg 三方を山で囲まれた鎌倉は、山を削って作った切り通しと呼ばれる道で外部と結ばれていました。いわゆる「鎌倉の七口」です。今回私は13日の極楽寺坂に続き、14日は名越、化粧坂、亀ヶ谷、巨福呂坂の各切り通しを見て回りました。
 旧態を留める切り通しは、どれも狭くてこれでもかといわんばかりに曲がりくねり、鎌倉の東の入り口である名越の切り通しに到っては、最も狭い部分は両側から山腹がせり出して幅1mに満たず、道のど真ん中に巨石すら置かれています(写真上)。まわりの山自体は標高100mほどで決して高くはないのですが、道がこれでは確かに大軍が一気に攻め入ってくることはできないでしょう。鎌倉が天然の要塞といわれる由縁、新田義貞が鎌倉攻めの際、極楽寺の切り通しの突破をついにあきらめ、海から鎌倉に入ったという話、実によく理解できました。c0133503_1041257.jpg
 その後、北鎌倉の円覚寺を始めとした古刹、さらには源頼朝の墓と回った後、最後の執権北条高時が腹を切ったというやぐらを訪れました(写真下)。1333(元弘3)年5月21日、討幕軍に北は化粧坂、巨福呂坂の切り通しを破られ、西は海からの進出を許した北条高時は、翌22日、あちこちから火の手があがり、鎌倉が阿鼻叫喚の巷となる中、ここで自害して果てたとのこと。今から675年前の話です。やぐらの中には五輪塔がぽつんと一つだけ残されていました。「いい国(1192)作った」頼朝の墓と指呼の間に「一味散々(1333)」と腹を切った高時の腹切りやぐらがあるとは、歴史の皮肉と言わざるを得ません。
 続いて、そのやぐらを下ったあたり、若宮大路東側のやや高台になった一帯、雪ノ下と呼ばれる高級住宅地を訪れました。住んでいる人は「決してジャージ姿でコンビニに行かれることなどない」(鎌倉在住のOさん)セレブな方々ばかり。ところがそこの道、どれも細いのです。それに突然行き止まりになったり、L字形に折れ曲がったりと、とにかく変。「高級住宅地なのに不思議なところだ」と思っていた矢先、はっとひらめきました。細い道、折れ曲がる道、それはあの切り通しと同じではないですか! その瞬間、ジワーと弱い電気が走ったような、実に心地よい感動が肩から首へと走り抜けました。私は、鎌倉将軍が守りを固め、坂東武者たちが闊歩した、その同じ道を歩いていたのです。
「鎌倉はいまだによくわからない街です」と地元の人が言うぐらいだから、わずか二日でこの街を理解して、表現するのは土台無理な話。しかし、その無理を承知で言うならば、鎌倉とは芦屋六麓荘のセレブさ、石切神社参道の妖しさ、京都清水あたりのにぎやかさが狭い街で交じり合う中、時々坂東武者の剛毅さがふわっと浮き上がってくる街とでも言えるでしょうか。
 14日午後9時50分発の夜行バスに乗って15日朝帰阪。3泊2日(2泊3日ではない)の強行軍で体は結構疲れたけれど、刺激受けどおしで頭の中はアドレナリン大分泌、このまま3月議会に突入です。
# by takeshi_yamagen | 2008-02-21 10:44 | 日本たびたびまた旅日記

湘南・鎌倉紀行④ 神と仏のあふれる妖都鎌倉

 08.2.20
c0133503_10301863.jpg 新江ノ島水族館見学後、江の島電鉄に乗りこみ、鎌倉の西の郊外極楽寺駅で下車しました。駅前の山裾には小さな祠が配され、「極楽で一休み」と書かれた食堂が続き(入るのになぜか覚悟がいります)、さらにその先には「極楽寺葬儀社」と書かれた看板がかかっています(極楽往生できそうです)。私は霊感など信じるほうではありませんが、極楽寺の谷筋にはなんとも妖しい空気が漂っています。律宗の僧忍性の建てた極楽寺を見学後、極楽寺坂(切り通し)を越えて鎌倉市内へ入っても、家々のちょっとした隙間や山裾の緩やかな傾斜地を埋めるように五輪塔や卒塔婆、そして御地蔵さんなどが並んでおり、山腹の岩を繰り抜いてつくった「やぐら」と呼ばれる鎌倉独特の墓もところどころに口を開けています(写真)。
 円覚寺、鶴ヶ岡八幡宮といった大きな寺社や大仏に留まらず、鎌倉の街には数知れぬ神と仏が満ちあふれている、これはちょっとした衝撃でした。 
 なお、13日の夜は鎌倉はせユースホステルにお世話になりました。
# by takeshi_yamagen | 2008-02-20 10:40 | 日本たびたびまた旅日記

湘南・鎌倉紀行③ 新江ノ島水族館

 08.2.17
c0133503_20394671.jpg 実は、湘南海岸まで足を伸ばしたのは砂浜や江ノ島に興味があったわけでは決してありません。新江ノ島水族館訪問、それが水族館オタクである私の唯一最大の目的だったのです。
 新江ノ島水族館は、湘南海岸の東端に建つ大きな水族館。それに2004年開館と新しいだけにまだとってもきれい。子どもみたいにちょっとうきうきしながら入館しました。
 この水族館の目玉の一つはクラゲ。展示室の壁面はクラゲだらけです(写真)。その半透明のファンタジックな姿はまさに癒し系、一見の価値はあります。また、クラゲ各種の毒の強さの程度を、簡単な文章を添えて五つ星で示した解説には工夫の跡が伺え、思わず最後まで読ませます。
 もう一つの目玉は深海生物の展示です。普通、深海生物は水圧の問題などもあって飼育が難しく、標本展示でお茶を濁すところが多いのですが、ここは生体展示が基本です。暗めの水槽の中で動めく生物たちは、どれも普段見慣れたものとはやはりどこか違います。特に私が驚いたのはダイオウグソクムシという生物。深い海の底では、全長45㎝にもなるダンゴムシのお化けがうごめいているんですね。そのテがお嫌いな方は覗かないほうがいいかもしれません。
 このように興味深い展示も多い水族館でしたが、ひっかかる点があったのも事実です。まず解説プレートや水槽の形にあまり統一性がなく、見ていて結構しんどかったこと。意図的にされていたのかもしれませんが、私にはついにその意図がわかりませんでした。また、水槽内の生物の解説に、はたして長ったらしいアルファベットの学名をわざわざ記す必要があるのか、疑問です。
 そして、なによりも不満だったのは大水槽がなかったことです。館内で最も大きな水槽でも幅15mほどのものにとどまり、近年の新しい水族館の中ではかなり小さめ。エイなど大きめの魚はかなり窮屈そうでした。しかし、この水槽の大きさの差は、ひとり新江ノ島水族館だけの話ではなく、実は、私が全国20ほどの水族館を見てきて感じる水族館の東西差でもあるのです。西日本の水族館は、海遊館(大阪)、須磨水族園(兵庫)、ちゅら海水族館(沖縄)のように巨大な水槽を館の中心部分、あるいは入口付近のスペースに”どん”と据えているのに対し、東日本ではそれを中心に据えようとはあまりしませんし、そもそも水槽を一定規模以上大きくしないようセーブしている気配すら感じられます。水族館の展示は細かく分類するのが基本であって、多くの種類の生物を一個所に入れる大水槽を邪道とする思想があるのでしょうか。そこまで言うのは少々穿ちすぎにしても、少なくとも西では「楽しんでもらおう」、東では「教えてやろう」が水族館の考え方の基本にあるのは間違いないと思います。
 これは優劣や是非の問題ではなく、東西の文化の違いに根ざすものと考えるべきでしょう。しかし、私としては、やはり水族館に行ったなら、視界からはみ出すくらいの大きな水槽の中を、悠然と去来する魚たちを眺めながら、しばし”ポケー”としていたいなぁ…。
# by takeshi_yamagen | 2008-02-17 20:41 | 日本たびたびまた旅日記

湘南・鎌倉紀行②  白い山と黒い浜

 08.2.17c0133503_20321269.jpgc0133503_20343271.jpg
 13日早朝、東京に着いた私は新宿まで出て、小田急線特急ロマンスカーに乗り換え、湘南海岸へと向かいました。
 着いたのは終点の片瀬江ノ島駅。その駅舎は、一目で竜宮城を模したとわかるかわいらしい建物(写真上)。解説書によると、この竜宮城、1929年の駅開設時限定の仮駅舎ですぐにつぶされる予定だったものが、そのまま現在まで使われているとのことでした。
 駅から歩いて3分で湘南海岸に到着。まず感激したのは、背後に聳える雪化粧した富士山です。左に箱根、右に丹沢の山々を従えるその堂々とした姿に私はしばし見とれてしまいました。また、いかにも「火山、火山」とした箱根のごつごつした山容は、近畿では見られないものだけに大変興味深いものでした。
 さて、再び海岸に目をやった私は「関西となにか違う」と感じ始めていました。そうです、砂が黒いのです(写真下)。あの白く美しい富士山などがかつて吐き出した噴出物で砂浜が黒くなっているのです。まったく皮肉な話。鎌倉のお店でお酒を飲みながらその話をしたところ、地元の人から「生まれた時からあの黒い浜に慣れてきました。でもやはり西日本や南の海の白い砂浜はあこがれです」という返事が返ってきました。さらに「湘南では日光ではなく、その黒い砂で肌を黒くします」とのこと。私が「本当!?」と聞き返すと。みんな大笑い。危うく騙されるところでした。
# by takeshi_yamagen | 2008-02-17 20:36 | 日本たびたびまた旅日記

湘南・鎌倉紀行①   「銀河」の鼓動を子守り歌にして

 08.2.17
c0133503_20191537.jpgc0133503_20224868.jpg
 昨年、東京・大阪を結ぶ最後の寝台列車急行「銀河」が3月14日で廃止になると聞いて、「ちょっとだけ鉄ちゃん」の私としては最後に1回くらい乗ってみたいものだと乗車の機会を窺っていました。そして、なんとか2月12日の夜と13・14日の予定をあけ、その「銀河」に乗って、湘南と鎌倉の街を訪ねることにしました。
 私は10時前にホームに上がり、車内販売がないからと缶コーヒーなどを買い求めたりしながら列車を待つことにした。そのうち平行して走る快速列車の事故の影響で、急行「銀河」も出発が5分ほど遅れるとの放送が構内に響きわたる。c0133503_20264912.jpg寒風吹きさす大阪駅で、首からカメラをぶら下げた「撮り鉄」(鉄道写真マニア)の兄ちゃんと「遅いなぁ」と言いながらさらに待つことおよそ20分、やっと「銀河」がホームに滑り込んできた。
 結局、午後10時30分、急行「銀河」は定刻より8分遅れて大阪駅10番ホームを出発した。
 私の寝台番号は、最後尾の1号車(A寝台車両)中央あたりの9番。寝台は上下2段に分かれており、下段は広く窓も大きいが、通路を歩く足音や列車の機械音が直接響くというデメッリトもある。結局、狭いが故に「秘密基地」感覚が楽しめるだろうとの思いから、上段を選ぶ。ちなみに料金も上段の方が2,000円ほど安い(写真下)。
 はしごを伝って寝台に潜り込むと、さっそく備え付けの浴衣に着替え、横になる。
 枕元に伝わってくるのは、規則正しく、そして小気味よいレールの継ぎ目の振動、ふいにやってくる左右の揺れ、そして少し前につんのめるような軽い減速と停車の感覚。100年以上続く夜行寝台列車の文化を次々消していくJRへの憤りは尽きないのだけれど、今夜ばかりは封印しよう。そして、もう間もなくその生涯を終えようとする「銀河」、彼のその胸の鼓動に、このままそっと耳を傾けていようではないか。夜汽車は乗る人誰をも詩人にしてしまう。川端康成が『雪国』の冒頭に夜汽車をもってきたのもうなずける。
 幅20㎝ほどの、枕元にある覗き窓からそっと車外を見ると、茨木、高槻あたりの、駅前の赤提灯がさっと行き過ぎていく。しかし、その繁華な光も京都を過ぎるとめっきり少なくなり、やがて、車内放送も途絶え、車内の照明も消えた。
 大阪駅で買いこんだお寿司で夜食を済ませた後、もう一度覗き窓を見ると、なんとあたりは一面の雪景色。国境の長いトンネルこそなかったが、「銀河」はひたすら雪国をつき進んでいたのだ。
 もう少し、列車から漏れる淡い光に浮かび上がる雪景色を楽しもうと思ったが、すでにビールの酔いが「銀河」の鼓動をすっかい心地よい子守り歌に変えてしまっていた。残念。私は覗き窓の金属製のカバーをそっと閉じ、枕元の灯りを消した。
# by takeshi_yamagen | 2008-02-17 20:28 | 日本たびたびまた旅日記

南大門が焼け落ちました

 08.2.12
 10日、韓国ソウル市の南大門が焼け落ちました。
 600年間ソウルにそびえたっていた国宝第1号の建物が、わずか5時間で、しかも放火で、瓦礫と化したわけです。その無残な姿に私はわが目を疑いました。朝鮮戦争をも奇跡的にくぐりぬけてきた、いわば韓国の人々の心のシンボルとでもいうべき建物であっただけに韓国国民の心中いかばかりでしょうか。
 考えてみてください。法隆寺の伽藍や姫路城天守閣が、目の前で焼け崩れたとしたら…。考えただけでもぞっとしませんか。 
# by takeshi_yamagen | 2008-02-12 15:46 | 歴 史 夜 話

元史建歴7  客 人 (ま れ び と)

 08.2.11
 映画「母べえ」に登場する、奈良から ”ふらっ”とやって来た佳代の叔父仙吉(笑福亭鶴瓶)、彼のようにどこからともなく突然やってきて、知らないうちにどこかに行ってしまう、まるで寅さんか風の又三郎のような人が、私の小さい頃にはまだそこかしこにいたように思う。
 それは、遠縁の親戚のおじさんであったり、まず子どもと仲良くなろうと考えた玩具メーカーのセールスマンであったり、ロバのパン屋の大将であったり、あるいは今でいうところのフリーターの兄ちゃんであったりした。
 親の立場からすると招かれざる人も多かったと思うが、これらの人たち、ほぼ例外なく子どもたちには人気があった。詳しく覚えていないが、彼らは未知の土地の話をしてくれたり、新しい遊びを教えてくれたりしたからだと思う。 
 翻って現在。マンションのオートロックの普及に象徴されるように、よそ者を排除する風潮は私の幼かった頃よりはるかに強まっている。子どもを狙った事件などが頻発する中、やむを得ないのかもしれないが、他所の空気を運んでくれる「客人」が生きにくい社会は、結局刺激がなくなり、空気がこもってしまいそうで、なんだか私には合わない。
# by takeshi_yamagen | 2008-02-11 15:55 | 元 史 建 歴

こうやって兵士は製造します -アレン・ネルソンさんの平和講演会から-

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 昨日、5日付ブログでお知らせしたアレン・ネルソンさんの平和講演会へ行ってきました。彼の話は、ベトナムでの悲惨な体験と同時に、いかに一人前の兵士を作っていくか、その過程にも力点が置かれていたようです。
 まず、幼い頃から戦争映画―かっこいい主人公が、美しいBGMのもと、適を倒し、女・子どもを救う映画―を見せた上で、青年たち―特にスラム街などの貧しい家庭の青年たち―を軍隊にいざないます。
 入隊後、最初に教えられたのが、無駄口を叩くな、命令に従え、ということ、そして、声を張り上げて「kill(殺し)」と叫ぶこと。
 次は、いよいよ殺人の訓練です。例えば射撃。アメリカ国内で、同心円の的を用いて命中率を高め、沖縄に移ってからは人形のボードを用いたとのことです。そこでどこを狙うか、頭や心臓は体の端のため、撃ち損じて敵に居場所を知らせてしまいかねない、だから股間あたりを狙うというのです。
 さらに敵を人間と思わせない教育もあったといいます。ベトナム人はグーク(浅黒いやつ)、つり目野郎、共産主義者と呼び、どれも人間ではない思い込まされたとのこと。これは、ベトナム戦争に限ったことではなく、太平洋戦争で米軍は日本人をジャップ―ラップ(ネズミ)に通ずる―と呼んでいたし、イラク戦争ではイラク人を砂漠のサルと呼んでいるとも付け加えられました。
 このようにして一人前の兵士にされた後、ベトナムに送られて「実践」。現地では、ジャングルに逃げ込んだ子どもや遺体の見つけ方、そして逃げた村人の数を割り出すための遺体の分別・計算方法をも教わったとのことでした。
 とにかく、終始いかに人を殺すかの教育です。
 そして、そんな彼らを母国で待っていたものは戦争後遺症(PTSD)。ネルソンさんもその克服に大変な苦労があったといいます。ちなみに今でもアメリカのホームレスの8割は社会復帰ができない帰還兵であるとのことです。 

 講演の内容は深刻なものでしたが、講演会後の懇親会でのネルソンさんは大変人懐っこい陽気な方でした。私が「日本共産党の池田市会議員をしております。共産主義者ですが、このように「人間」です」と自己紹介すると大笑い、彼の白い歯が大変印象的でした。
# by takeshi_yamagen | 2008-02-11 15:39

「当たり前」を守る人、望む人、恐れる人 -映画「母べえ」に思う-

 08.2.10
c0133503_15273061.gif 一昨日、映画「母べえ」を見てきました。
 野上家はドイツ文学者の父滋(坂東三津五郎)、母佳代(吉永小百合)、そして小学校に通う二人の娘、初子・照美の4人家族。互いを「母べえ」「初べえ」などと呼び合う幸せな家庭に、ある日警察が踏み込み、滋が反戦思想を理由に治安維持法違反で連れ去られます。佳代は夫を信じ、精一杯家庭を守り抜こうとします。
 鑑賞後、気付いたのは野上家のまわりの人が皆やさしかったこと。反戦思想を持つ人物がいる家は、よくまわりから孤立しているように描かれることが多いだけに意外でした。
 おそらく、戦争という狂気の時代を前にしても、普通の暖かい家庭を守りたいという「当たり前」のことを言っている野上家の人たちに、まわりの人々が心のどこかで共感を寄せていたからでしょう。
 そして、その「当たり前」を求めて野上家にはたくさんの人がやってきました。その象徴的な存在は、奈良から ”ふらっ”とやって来た佳代の叔父仙吉(笑福亭鶴瓶)。「世の中は金」と子どもたちに言い切ったり、「贅沢は敵やない、ステキや」と国防婦人会に毒づいたりと、その発言の過激さゆえ、誤解を招くことの多い彼でしたが、言うことはどれもどこか真理をついており、そして、なによりもなんでも言いあえるという「当たり前」を彼は身をもって示していたように思います。
 滋は、「当たり前」を崩す元凶が戦争であることを見抜いたゆえに権力に捕らえられた。しかし、その「当たり前」の生活を守ろうとする人々の思いこそが、権力の最も恐れるところでもある…。山田洋次監督はそれを言いたかったのではないでしょうか。
 あまり筋をぺらぺら話してしまうと松竹映画に怒られるので、このへんにしときます。是非、映画館に足をお運びのほどを…。
# by takeshi_yamagen | 2008-02-11 15:29 | 銀 幕 日 記

私たちのビフォー・アフター  控室がリニューアルします

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 市役所3階の日本共産党議員団控室は、昨春の市議選で一人増えた後も以前のままで、なにかと不都合が生じていました。「なんとかしなければ」とみんな思いつつ、定例議会と選挙が交互にやってくる状況が続く中、そこまで手がまわらない状況が続きました。
 知事選が終わって、3月議会が始まるまでの今しかないということになり、昨日からようやく模様替えの作業にとりかかりました(写真)。
 控室にいらっしゃったことのある方ならご存知でしょうが、議員団の控室はドアを入って正面に事務室があり、左側に応接室があります。まず、事務室を明るくしようということになり、入口と事務室内部を隔てていたパーテイションを撤去しました。応接室はソファの横に印刷用の輪転機がおかれているなど雑然としていたのですが、その輪転機を、事務室にあった更衣ロッカー・シュレッダーとともに、応接室の一番奥の一画にまとめて置くことで、大変すっきりしました。
 力仕事も多かったのですが、「(ロッカーの下から)100円玉見つけた」などと言いあいながら、結構楽しく作業は進みました。しばらくはまだ散らかった状況が続きますが、御容赦の程よろしくお願いします。
# by takeshi_yamagen | 2008-02-07 14:05 | 池田市議会 ここだけの話

わが青春の石橋2 溝 添 池

 08.2.6
 池田は文字通り「池」の多い町。その多くは埋め立てられてしまったが、どの溜池も結構個性的で、私にとっては思い出深い場所である。
 今回紹介する天神1丁目にあった溝添池は、「みそぞえいけ」と読み、池田市南部では最大の溜池であった。
 今の市民文化会館とその駐車場、さらには豊島野公園全体がひとつの池だったわけだから、だいたいの大きさを察してもらえようか。さらに、池の周辺にほとんど樹木がなかったために、堤の上に立つと大変見晴らしがよく、よけい広く感じられたものである。だから、私にとっては「広いだけの殺風景な池」という印象が強く、夏の夕方などはウシガエル(食用ガエル)の「グゥワァ、グゥワァ」という声だけが響き渡り、不気味さすら漂う池であった。ただ、石橋の散髪屋のご主人は、大きなタイワンドジョウを釣り上げたことがあるとおっしゃっていたから、意外に魚は多かったのかもしれない。
 余談ながら、幼い頃、一時期池田に住まわれていた女優の田中裕子さんが、この池の周辺でよく遊んでいたことを、某紙に書かれていたことを思い出した。書き留めておきたい。
# by takeshi_yamagen | 2008-02-06 18:14 | わが青春の石橋

「あなたは人を殺しましたか?」ーアレン・ネルソン 平和講演会へのお誘いー

 08.2.5
「ミスター・ネルソン」
女の子はまばたきもせず、わたしをまっすぐ見つめると、たずねました。それは私にとって運命的な質問でした。
「あなたは人を殺しましたか?」
誰かにおなかをえぐられたような気がしました。私の体は、こわばり、重くなり、教室の床にのめりこんでいくような気がしました。(アレン・ネルソン著『ベトナム帰還兵が語る「本当の戦争」』より)

 アレン・ネルソンさんは、1947年ニューヨーク・ブルックリンに生まれ、海兵隊員としてベトナム戦争の前線で戦い、帰国後戦争後遺症(PTSD)に苦しまれました。現在、日米両国で精力的に講演活動を行い、戦争の現実、愚かさを訴え続けておられます。
 このほど、ネルソンさんが来阪され、池田でお話を伺うことになりました。どうか、お誘い合わせのうえご参加くださいますようよろしくお願いします。私も参ります。

 と き  2月9日(土)午後2時~4時
 ところ  池田市民文化会館 コンベンションホール 
 参加費  500円
 主 催  九条・さつきの風  
 後 援  九条の会・池田    

 なお、通訳の平塚淳次郎さんと、今回お世話になったアレン・ネルソン関西ネットワーク事務局長の竹内能忠は元渋谷高校の先生です。
# by takeshi_yamagen | 2008-02-05 13:00

今年はカエル年です!?②

 08.2.4
 もう一つだけ、カエル話。
 先年息子が通っていた学童保育所のキャンプの付き添いで滋賀県高島市の山中にあるキャンプ場に行った時、渓流の中を泳ぐヒキガエルに出会いました。
 子どもたちには「これはヒキガエルだよ」と知ったかぶりして説明したものの、①で書いたようにヒキガエルはカエルの中では比較的乾燥したところに棲むことが多く、渓流に棲むなど聞いたことがありません。また、そのカエル、色も普通のヒキガエルに比べ少し黄色みが強いように思えました。
 しっくりいかずに大阪に帰って調べてみたところ、どうやら私たちが見かけたのは中部地方西部と近畿地方の渓流に棲むナガレヒキガエル(写真)という種類だったようです。「あまり聞いたことない名前だな」と思ってさらに調べていくと、両生類研究の大家、京都大学の松井正文先生が1976年に発表された新種であるということもわかりました。いや、おもしろい。いろいろ勉強になりました。。c0133503_10562563.gif
 カエルが育むのは、子どもの好奇心だけではないようです

 追伸;かつて市内新町にモリアオガエルの生息する池があったと聞きました。府内のモリアオガエルの生息地は現在数箇所しかないだけに、なんとか保存できなかったのかと残念に思います。
# by takeshi_yamagen | 2008-02-04 11:01 | アニマルライフ

今年はカエル年です!? ①

 08.2.3
 今年はなに年?そう、ネズミ年ですね。それはそのとおりですが、実は国際自然保護連合と世界動物園水族館協会が提唱した「国際カエル年」でもあるのです。そこで、今回はカエルについてのお話にお付き合いを…。
 私が思うに、カエルほど子どもたちにとって身近な遊び相手だった野生動物はないと思います。多くの方(特に男性)は、子どもの頃に一度や二度は、その眼前に糸を垂らしてカエル釣りなどをしたことがあると思います。
 また、カエルほど卵からオタマジャクシになって、後足に続いて前足がはえて、やがて尾が消え陸にあがるというダイナミックな変身をとげる動物もめずらしいでしょう。
 さらにカエルは結構種類によって住む場所が違うのも特徴です。例えば、カジカガエルは川の上流、トノサマカエルやツチガエルは田んぼや池、アカガエルは山の中、アマガエルは樹木の枝先といった具合。そして、ヒキガエル(ガマガエル)は人家周辺の木の洞などでひょっこり見かけたりしますね。
  これだけ身近で、”キャラが立つ”動物が、子どもたちの好奇心を育まないわけがありません。
 同時に、カエルは食物連鎖の上でも重要な位置を占めます。つまりカエルは害虫を含めた昆虫を大量に食べると同時に、多くの鳥やヘビの恰好のエサとなっているのです。カエルはなんと私たちに環境問題まで教えくれるのです。
 ところで、その愛すべきカエルたち、いつのまにか私たちのまわりから消えてしまったと思いませんか。石橋・豊島地域でも、一部に残る水田や箕面川といった水辺ですらあまり見かけません。大変気がかりです。
 実は、カエルが消えていっているのは池田に限った話ではありません。今、世界でカエルをも含めた両生類の32%が絶滅の危機に瀕しているというのです。これは由々しき事態、私たちはカエルたちが帰るよう、もっと真剣に考える必要があると思うのですが、どうでしょう。
# by takeshi_yamagen | 2008-02-04 10:50 | アニマルライフ

メタボ克服作戦

 08.2.2
 35歳頃だったでしょうか、はいていたズボンがだんだん窮屈になってきました。最初はあまり気にもとめなかったのですが、40歳になってとうとう物理的にはけなくなってしまいました。
 さらに45歳を迎える頃には、顔の下半分のお肉も目立ちだし、比例して、久しぶりに会った友人から、挨拶代わりに「肥えたんちゃう?」と言われる機会が増えました。
「僕は肥えない体質やねん」と豪語していた20年、30年前は「今は昔」となってしまいました。
 それでも、体重は確かに20年前に比べるならばかなり増えたものの、しばらく「高値安定」の横ばいだったので、あまり減量の手立てをとろうとはしませんでした。強いて言えば、市役所までの通勤も、地域を回るのも自転車を心がけたくらいでしょうか。
 ところが、です。ここ数ヶ月再び体重計の数値が上昇に転じてきたではありませんか。さすがの私もことここに到っては危機感を持ち、なにか運動しなければと思い出してきました。c0133503_1532685.gif
 前置きが長くなりましたが、そこで先日から始めたのが市立総合スポーツセンター(荘園2丁目)でのトレーニング(写真)。安い料金で(1回200円)、平日夜9時まで(土・日は5時まで)利用できるのが大きな魅力、市の施設の利用者数増にも少しだけ貢献できそうです。皆さんもいかがですか(第2火曜日は休館です)。 
# by takeshi_yamagen | 2008-02-02 15:10 | 建声元語 ―よもやま話―

80年前の今日、『赤旗』が誕生しました

 08.2.1
 今日、日本共産党の機関紙『赤旗』は80歳の誕生日を迎えました。創刊80年にあたっては森繁久弥さん、羽生義治さん、ジェームス三木さんをはじめとした多くの方からお祝いのお言葉を頂戴しています。
 その中のジャーナリストの大谷昭宏さんの言葉。
「…一般紙の記者も努力はしているが、いくつかのバリアがある。たとえば偽装請負は、テレビでは特集できない。キャノンなどのスポンサーを敵に回すことはできないからだ。タブーを超えて報道するのが「赤旗」の強みだ。…」
 まさに、企業・団体献金、政党助成金も受け取らない党の機関紙だからこそ、相手がいかなる党、企業、団体であってもタブーなく報道できるという『赤旗』の優位性を端的に書いてくださっていました。それは相手があのソ連共産党であっても同じでした。
 私が『赤旗』でまず思い起こすのは、そのソ連共産党との論争です。
 ソ連共産党は日本共産党内に内通者を作り、日本共産党をソ連追随の党にしようとしたり、ソ連派「共産党」を育成して、日本共産党を攻撃したりしましたが、日本共産党の「国民よりもソ連の意向を伺う党が、果たしてその国の変革に責任を負う共産党といえるのか」との反撃の前に、どれも失敗。
 そして、日本共産党のような自主独立の党は崩せないと見たソ連共産党、今度は「一つの国に二つの共産党があってもいいではないか」とする論を持ち出して、あくまでも親ソ派「共産党」に固執しました。しかしこの「併党論」に対しても、①一つの国に共産党は一つでなければならない(※)、②自国でソ連共産党以外の政党を認めない党が、他国に複数の共産党を認めろ、というのは矛盾しているではないか、と反撃し、ついに彼らは全く討論不能に陥ってしまいました。
 1970、80年代、次々『赤旗』紙上に発表された日本共産党のソ連共産党に対する理論整然とした反撃論文を、私はいつも胸のすくような感動すら覚えながら読んでいました。ソ連に追随し、国民を省みなかった多くの党が名前を変えたり、泡沫政党に転落したりしてしまい、そしてなによりもそのソ連共産党がなくなってしまった現在、勝負の結果は誰の目にも明らかですね。

 ※これは、日本共産党は絶対であり、誤りを犯さないということではありません。国民の運動をまとめ、社会を変革していくためには、科学的社会主義を理論的基礎とする党は、一国に一つでなくてはならないという意味です。例えば、日本に多くの共産党があってそれぞれが消費税廃止、引き下げ、引き上げとばらばらのことを言っていたら、統一した運動は組織できません。それで喜ぶのは政府と大企業だけですね。
# by takeshi_yamagen | 2008-02-01 14:59 | 日本共産党はこんな政党です

日本共産党 大阪・池田市会議員  山元たけしの日々の活動を綴ります


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